喜多院 山内禁鈴のなぞ
喜多院は小仙波町にある天台宗の由緒正しき寺院です。
喜多院の広大な境内は池や掘を廻らせた景勝地として、参拝に訪れた人や、地元の人の憩いの場となっています。
写真:喜多院境内
ここでは、喜多院の有名な伝承の一つ、「山内禁鈴」を顧みていきます。
境内では鈴を鳴らしちゃダメ!
ってことですね。
なぜ鈴を鳴らしてはいけないのか?
このはなしの面白いのは、そのいわれとなるエピソードが複数存在することです。
まず、一つめのいわれです。
「美しい娘と龍」のおはなしです。
このおはなしは喜多院のHPに「山内禁鈴」のいわれとして紹介されています。
“むかし、喜多院を訪ねた美しい娘が和尚さんに、100 日間鐘をつかないお願いをします。
鐘をつかない代わりに、お礼として、鐘の音を素晴らしいものする約束をしてこの美しい娘は消え去りました。
和尚さんは、人助けだからとこの娘の願いを聞き入れ、鐘をつくのをやめました。
鐘をつくのをやめて、99 日目の夜のことです。
また別の美しい娘が現れて、今度は一度だけでいいので鐘をついてほしいと頼まれました。
前の娘の約束を破ることになってしまいますが、涙ながらに頼む娘を憐れんだ和尚さんが鐘をつくと、鐘はとても素晴らしい音を鳴らしました。
しかし、その時、美しい娘は恐ろしい龍に姿を変えて、嵐を起こし、天高く舞い上がっていきました。
慌てた和尚さんが二度目の鐘をついてみると、先程奏でた美しい音は聞こえず、余韻のない悪い音がします。
その時、寺の南の方より大きな音がしたかと思うと、前よりも激しい嵐となり、尚さんがクルクルと水車のように回りはじめました。
なんと99回も回ったそうです。やっと収まった時、和尚さんはこれは、実は龍の化身だった娘のたたりだと思い、その後、山内では鐘をつかなくなり、鐘を鳴らすことも禁じたということです。”
美しい娘は実は龍であり、和尚さんがしっかり願いを聞き入れてくれたのか、99 日目に別の娘の姿に変えて試したのでしょう。
和尚さんが、前の娘の約束もあるし、あと一日鐘を鳴らすのを待ってほしいと伝えれば、この話はまた別の結末になったのでしょうか。
“和尚さんの誠実さが龍に伝わり、その後、喜多院の鐘は美しい音色を奏で続けました。めでたし、めでたし。”
で締めくくられるおはなしも聞いていみたい気がしました。
写真:鐘楼門
【参考】 川越大師喜多院 HP 喜多院七不思議と伝承話
では、続けて二つめのおはなしです
喜多院には、自然豊かな境内を住処とする小動物も多くいます。
境内を遊び場とした子供たちやと足を休めた参拝客と戯れた小動物もいたのではないでしょうか。
このおはなしは、そんな、喜多院の境内で暮らした一匹のへびとへび好きの住職さんとの深い絆があったからこそ、起こってしまったおはなしだったのではないかと私は思いました。
写真:自然豊かな境内
“むかし、喜多院の住職で、境内の蛇をたいそう可愛がった方がいたそうです。
その住職は、毎日、蛇にえさを与え、えさを与える時には必ず鈴をならし蛇に知らせたそうです。
境内の蛇たちは、えさを知らせる鈴の音を毎日楽しみにしていました。
ところが、この住職はある日、急な病に倒れて、とうとう帰らぬ人となってしまいました。
蛇たちが楽しみにしていたえさやりもなくなってしまいます。
しかも、後任の住職は大の蛇嫌いでした。
寺のものは気を使って間違えて蛇が出てこないように、鈴を鳴らすこともなくなりました。
これが、禁鈴のいわれかと思いきや、そうではありません。
このおはなしには続きがあります。
境内では、えさを絶たれたことで、飢えて死んでしまったヘビもいます。
また、他に住処を移したりもして、境内のへびは徐々に少なくなっていきました。
そして、とうとう境内に残ったへびは一匹になったそうです。
この最後に残ったへびは、まえの住職と戯れ、お腹も満たされて幸せだった日々の思い出もあって、住みにくくなってしまっても喜多院を離れることはしませんでした。
そして、それから長い年月が過ぎ去った、ある日のことです。
喜多院に物売りがやってきて、鈴を鳴らしながら境内に入ってきました。
すると、その時、一匹の大蛇が突然茂みから、人々が集まっている開けた場所に飛び出してきたのです。
それは、たった一匹で境内に残っていたあの蛇でした。
鈴の音が、蛇の遠い記憶を呼び起こしたのです。
蛇はむかしのように、餌を与えられ、人々と戯れられると思い、喜んで姿を表したのです。
しかし、大蛇をみた人々は、驚いて皆逃げてしまいました。もちろん、えさもありません。
蛇は悲しみ、激しい怒りを覚えました。
怒りはとまることはありません。
へびは狂ったように大暴れしました。
そして、とうとう、境内を壊し、近くの人家にまで被害を与えてしまいました。
こんなことがあってから、喜多院の境内では鈴を鳴らすことを固く禁ずるようになったそうです。
また、寺にある鈴にも、振り子をつけることがなくなってしまいました。”
写真:慈恵堂の鰐口
この蛇は、昔の幸せだった頃が忘れらずにいたのでしょうね。
そして、長い年月を経て久方ぶりに耳にした鈴の音にとても期待したのでしょう。
この蛇のその後はわかりませんが、別の幸せを見つけて、穏やかに暮らせていたらいいですね。
【参考資料】 続川越の伝説 川越市教育委員会 昭和59年
喜多院の山内禁鈴が始まったいわれは、「美しい娘」や「さいごのへび」の他にもまだ由縁があります。
まだまだつづきますよ。
それが、「三匹の古きつね」のおはなしです。
喜多院の有名な僧正さんといえば、言わずもがな天海僧正さんがいますよね。
天海さんは、福島県会津の人でしたが、比叡山に上って天台宗を学び、天正十六年(一五八八年)に、北院の学僧豪海をしたって来山し、のちに師のあとを継いで北院の主となり、寺名を喜多院と改め、関東天台宗の本山と定めました。
天海僧正は時の権力者、徳川家康と深い関わりをもっていた為、政治的な影響力も非常に強い方でした。
写真:天海僧正像
この歴史的に高名なお坊さんがこの川越の地で、喜多院の復興に終生努めたことが、今日の川越の有り様に大きく影響していることは言うまでもないでしょう。
この天海僧正さん、徳川家康がなくなった後は大僧正となり、誰もが認める立派なお坊さんであるわけですから、その神通力にもいろいろな伝承があります。
では、その天海僧正さんにまつわる神通力と三匹の古きつねのお話を紹介しましょう。
“あるとき、天海僧正さんを三人の子どもがたずねてきます。
子どもたちは、天海さんに弟子入りしたいと、ねっしんに頼むので、その熱意をくんで、天海さんは子どもたちを小僧として寺におくことにしました。
子どもたちは、天海僧正を師として敬い、とても一生懸命に働きました。
師を心から尊敬する子どもたちは、師の日頃の行いを観察することも修行の一貫であるとし、その一挙一投足を見逃さないようにつぶさに観察していました。
ある日のことです。
天海僧正は急遽、日光に用事ができました。
江戸時代には、五街道と呼ばれる、江戸と各地を結ぶ、道路整備の大きな改革がありました。
五街道は、道幅を広げて宿場を整備し、砂利や砂を敷いて路面を固めたり、松並木を植えるなど街道の整備を着々と進められておりました。
五街道の一つ、日光街道も徳川家康を祀る日光山に至る主要道路として整備されておりました。
五街道以外にも、江戸から軍事的、政治的に重要な地への道路は整備されていきましたが、いくら整備された道とはいえ、主な移動手段が徒歩である当時、川越から日光への移動は決して楽なものではなかったでしょう。
ところが、さすが天海僧正さんです。
やはり人並み外れた神通力を持っていらっしゃいました。
庭の築山の登り、鈴を鳴らしたかと思うと大空高く飛び上がり、そのまま日光目指して、空を飛んでいってしまいました。
この様子を、ソーッと隠れてみていました子どもたちは、早速自分達も真似してみようと、それぞれ、近くにあったほうき、すり鉢、すりこぎ棒を持って築山に登りました。
そして、師の真似をしてイヤッと築山から飛んでみるも、空を飛ぶことはできませんでした。
子どもたち、師の神通力に近づくには、自分達はもう少し高い場所から飛び立つ必要があると思ったのでしょうか。
今度は、境内の高く立派な杉の木に上ってみました。
写真:境内の杉の木
そして、再び、イヤッと飛んでみたものの、神通力が宿ることはなく、木から落下し、杉の木のふもとにあった池に落ちて、悲しくも死んでしまいました。
しばらくすると、天海僧正が帰ってきました。
天海僧正はいつもと様子が違うことに気づきます。
いつも師の帰りを待ちわび、喜んで迎えに来る子どもたちの姿がありません。
境内を周って探してみると、杉の木の下の池に、ホーキとすり鉢とすりこぎ棒をもって動かなくなっている古狐を三匹見つけました。
天海僧正さんは、この弟子たちのことを大変憐れに思い、三位稲荷として祀りました。
そして、境内では鈴を鳴らすことを禁じ、さらに、ホーキとすり鉢とすりこぎ棒は一緒に置かないようにしたそうです。”
【参考資料】 続川越の伝説 川越市教育委員会 昭和59年
空も飛び、人に化けることのできる狐からも慕われると言い伝えられる天海僧正は本当に人徳のあった方だったのでしょうね。
さて、こんかいは喜多院にまつわる「山内禁鈴」の伝承にまつわる3つのおはなしをご紹介しました。
どのおはなしも最後は、禁鈴のしばりにつながるおはなしでしたが、
どれも登場人物たちの人柄や
むかしはいまよりも人外のものとの結びつきが今よりも強い時代だったんですね。
喜多院が 830 年に創建してからこのブログを書いている 2019 年まで実に 1200 年ほどの長い年月の中で、
何かしらの出来事がその土地の人々の間で口伝されて、だんだんと形になったおはなしではないでしょうか。
タイトルになぞと題しましたが、その時代背景ごとに生またいろんなおはなしの集合体として、この山内禁鈴がうまれたのだと思います。
民間伝承の醍醐味と摩訶不思議さがこのおはなしにはありますね。
皆さんはどのいわれがきにいりましたか?