小江戸文化 川越藩主の功績

2019/11/28
 
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こんにちは 埼玉県川越市在住 30代 男性 コエドです 「住めば都」といった言葉がありますが、 住み慣れるにつれて、川越の文化、風土に愛着が募る日々です この文化的な街、川越の魅力を微力ながらご紹介したいと思います

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時の天下人徳川家康は天正十八年(1590 年)に江戸城に入城し根拠地としました。

家康は、入国と同時に家臣達の知行割を行います。

この知行割で酒井河内守重忠が一万石をもって川越に封じられました。

この酒井重忠さんは徳川譜代の名門の出で、関ヶ原の戦いをはじめ数々の戦で活躍した方で実績も信頼も十分なお侍さんです。

ちなみに一万石は今の貨幣にして約数億円(1億円だったり5億円だったり諸説あります)の価格といわれていますので、凄まじい報酬だったことがわかります。

川越は江戸に近い立地 で軍備の側面から非常に重要な土地でした。この報酬を受け取るだけの責任が川越藩主にあるということからも、その重要性が伺いしれます。

ともあれ、酒井重忠さんをはじめ、代々川越藩主は譜代大名で幕府の要職にもついていましたから、明治になり廃藩に至るまで川越は江戸と密接な関わりを持ち続けました。

この歴代の藩主達の働きが今日の川越の文化的な情緒を形成するのに一役も二役も買っています。

例えば、重忠さんと同じ酒井家で藩主であった酒井忠勝さんは時間管理を徹底する方でした。

城中で家臣から学問を受けるときも、床の間に時計を置き、講義時間をキッチリ守ったり、江戸城登城の時間もいつも正確なので、周りからも「讃州候(忠勝さん)の登城ゆえ、今は何時だろう」と時計代わりにされていたとまで伝えられています。

こんな、時間管理に徹底的なお殿様は、それは周囲への時間管理への要求も高かったのでしょう。

川越城内にも時を知らせる太鼓櫓を設けます。

そして、後にはあの川越のシンボル「時の鐘」を創建したのです。

正確な時へのこだわりが、今日の川越の象徴を生み出したなんて驚きですよね。

正確な時を刻むことで、新たな川越の秩序を生み出した藩主酒井忠勝さん。

しかし、時の鐘がのどかな音を奏でるためでしょうか?

時間カッチリなお殿様でもあまり細かい性格に感じませんね。

穏やかな鐘の音で秩序を形成する。こんな粋な計らいなんてまさに小江戸文化といえるんじゃないでしょうか?

ちなみに川越市民は時間通りに行動する実直な性格であって、他人に緊張感は与えない人が多いと個人的に思っております。

さて、続きましては知恵伊豆と呼ばれた才たけた藩主、松平伊豆守信綱さんの功績を振り返りたいとおもいます。

松平信綱さんの功績はありすぎて語り尽くせないほどです。なので詳しくは別個に記事を書きたいと思っています。

ここでは、町割り制度の形成と川越まつりの創設をご紹介します。

まず、町割りですが、江戸時代の町は、領主が指定した地区に町奉行が置かれて町と認定されました。つまり、人が多く集まり、商いが賑わっている集落でも、それだけでは町とは呼ばれませんでした。

軍事的な理由からも城下町の整備は重要ですので、行政によって明確に町が定義されていました。

川越の場合、町は、江戸町、本町、南町、喜多町、高沢町の上五か町と、上松江町、多賀町、鍛冶町、鴫町、志多町の下五か町の合わせて十か町に町は限られてました。

また、このほかに養寿院、行伝寺、蓮馨寺、妙養寺の門前が門前町に指定され、四門町と呼ばれました。

この十か町四問前をまとめて町分と呼び、この制度ができたのが松平信綱さんの時代だといわれています。

今、蔵造りや川越の史跡やグルメを目的に川越観光に訪れる人達は、小江戸川越の町並みそのものに惹かれた方も多いのではないでしょうか?

城下町の風情を感じられるのは、目に見える建物や風景だけでなく、観光を楽しむ際に歩く一歩一歩が、当時の面影を感じているからです。

現代人も歴史感じる城下町と納得させる町割りを行った信綱さんはさすがとしかいいようがありませんね。

もちろん、当時は城下の発展に加えて、効率的な管理や防衛などを重要視して町割りを行ったのだと思いますが。できる男がきっちりと仕事をこなした感じですね。

このできる一流の男信綱さんは、なにも仕事人間ってだけではないところがまたあっぱれな方でした。

それが川越まつりの始まりです。

信綱さんは雅もしっている方でした。川越ほどのところに何の祭りもないのはおかしいと言い出したそうで、それがきっかけで藩命で急に執り行われた祭りが川越まつりです。

この川越まつりを催すにあたり、当時江戸の元禄文化の気風を少なからず受けたとされています。

川越まつりでは花出しといった、心柱というサカキを立てて山の神を祀ったものに車をつけて引く出し物があり、これが「山車」と書かれる由来とも言われています。

この山車には季節の花が添えられていたので花出しとよばれ、これが後に十か町の町内ごとの人形になって今に引き継がれています。

ちなみにこの人形ま今も数体当時のものが現存しており、川越まつりでは、曳っかわせ(山車同士のお囃子合戦)でみることができます。

からくり人形が好きな方は必見です。大きな人形と動きのダイナミックさを見て当時の技術に驚くと思います。ぜひ一度川越まつりに足をお運びください。

ともあれ、信綱さんの功績はここで紹介しただけでも、現在の川越を川越たらしめたそのものであるような立派なものです。

残念ながら先の大戦で東京は空襲の被害で、江戸の町並みを残す地域はほとんどなくなってしまいました。

そんなときに、川越の歴代藩主が残した 江戸イズムを継承する文化的遺産は、今後ますます歴史的価値を見出すことができるとおもいます。

まだまだ、川越の歴代藩主にはご紹介したい方が多くございますが、ここまででもだいぶ長文になってしまいましたので、今回はひとまずここで区切らせていただきます。

お読みいただきありがとうございました。

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